ゆがんだしゅうちゃく

昨日の日記の、ロマノフスキーさんのコメントの
「どこに期待するか?」という質問。
つくづくいい質問だなあと思った。
仕事をしながら、その質問の答えを、いろいろ考えてしまった。


結果「作り手のフェティシズム」という答えにたどり着いた。
「こだわり」よりもっと深く、ある種歪んだ執着というニュアンスだ。


ではボクは何にフェチって、漫画を描いてるのだろう?
ゆうきまさみさんから指摘されて以来、常に公言してる
「手触り感」とか「体感」。
これには、かなり執着心があると、自覚してる。


「手触り感」「体感」=台詞や言葉に頼らず、絵柄やちょっとした仕草などから醸されるもの。
重さとか、温度とか、においとか、やわらかさとか、空気とか。

自分自身の作品や他の方が描かれた漫画に限らず、小説でも映画でもアニメでもドラマでも、「体感」を感じない作品には、不思議なくらい、まるで興味がわかない。
そういうものにひたれきれないと、なかなか物語そのものやキャラクターの感情に入りきる事が出来ない。
例えば、親友を失って感情を吐露しながら号泣するキャラクターがいても、「そこがどんな場所なのか?」が体感できる要素が少な過ぎたり、その展開の平面上に乗ってなかったりすると、スコーンと置いていかれてしまうのだ。
いち読者としては、かなり面倒臭い部類だという自覚もある。

逆に、ストーリーの構成がまったくでたらめで、結局何を言わんとしてるかチンプンカンプンな作品でも、「体感」を感じると、おそらく作者さえ意図してなさそうな場面で、涙があふれたりする。
(なので、ボクが泣けると思う作品は、たいてい誰にもオススメできない)




で。
これはもう既に公言してる事であって、にもかかわらず、その度にこうしてくどくど語ってしまってるんだけど。
でも、しかし。
昨日の質問を受け、あらためていろいろ脱線しながら自己解析していたら、
「すごく体感を感じるのに、あんまり好きになれない作品がある」ということに、ぶち当たったのです。


結論から言ってしまうと、自分で知らず知らずにかなり執着していた「もうひとつの要素」があったということを発見したのです。






・・・・そうやって、何気ないきっかけで自分の根幹に巣食っていた、未知なる自分に出会えた事が、なにしろ嬉しい!
と、今、そういう気分であるということを、この日記に書き留めておこうと思った次第。