こうていしゅぎ

工程主義。
つまり「手順を描く」という事に、こだわる姿勢である。


(スコペロ2巻p40〜41)
ストーリー的にも演出的(エロくもないし、笑えたり泣けたり怒ったりもしない)にも地味。
その割に、複雑なアングルやポーズを描くのは大変だし、ページ数(コスト)もかかる。
しかし、この制服をどうやって脱ぎ着するのか、どうしても具現化・ビジュアル化したものを見たかったのだ。
編集者や一般読者のニーズは、関係ない。
「見たかった」のは、自分という読者。




ちなみに、ボクが好きな「工程」のシーンは、例えば最近の映画で言うと、アバターの大佐が主人公を懐柔するシーン。


懐柔する工程もさることながら、大佐が主人公に話をしながら、「AMPスーツ 」と呼ばれるパワードスーツに乗り込むシーンを、物凄く丁寧に描いている。
あのシーンは、ストーリー上も演出上もコスト上も、省いてもまったく支障のないシーンだ。しかし、わざわざ大掛かりなセットや面倒な設定、無理矢理なカメラワークを駆使して、本当に苦労して撮っている。監督にそれだけのこだわり・・・つまり、「どうしてもこのシーンの具現化したものを観たい」という激しい執着があるのだと、確信している。


こだわって、頑張って作り上げたシーンは、一見地味でも、心にしみる。
少なくとも工程主義者のボクの心には。

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[追記]
この日記を公開したあと、読者の方からTwitterで「編集者の方からのツッコミをかわす為には、こうすべきだったのでは...」というような、御気遣いから起因するアドバイスを頂いた。
日記の内容で御心配をおかけしまったのは申し訳なかったとは思う。ただ、商業誌の基本的なルールとして「原稿にかかる前に、ネームと言う準備稿を描き、それを元に編集者との擦り合わせをする」というものがある。つまり担当編集の了解が出てから、本番の執筆作業にかかっているワケだ。
なので、実際に編集者から厳しくこのネタをやめるように言われた訳でも、ましてやボクと担当編集が対立をしてる訳でもない。


こういう記事が発端で、「カサハラテツローは編集者とうまくいっていない」「カサハラテツローの担当編集は間違ってる」などという風評が広まるのは、とても不本意だ。(ちなみにスコペロの担当者とは、当時は勿論、今でも時々延々とおしゃべりを楽しむ、かけがえのない友人だ。)
同時に、「読者のかたが業界の常識を当然知ってる」というような気持ちで記事を書く事は、気をつけないといけないとも思った。